シドメンへ
「まめしんぶん」連投を一旦はずれて、
きょうはまめたび(布のはなし)の一日です。
10月になって間もなくのこと。
サンデーオーガニックに久しぶりに顔を出すと、
友人、さちこさんと意外な話に。
「アグン山地域の避難者ね、シドメン(=ソンケット織の産地)からもいるって」
「50年前の噴火の時には、シドメンからヌガラ県(バリ西部)まで
徒歩で疎開した人たちもいて、うちの主人の家系はその一部なの」
「なるほど、ヌガラにもソンケットがあるのは、そのせいかもね。実は、
機を持って避難先からうち(マニスのスタジオ)に来てもらって、
織物やってもらえないかと思ってたところ」
「避難の人たちの様子、知りたい。
親せきの一部がシドメンにいて、確かに織物をやっているよ」
「わお、じゃ、さっそく行こうよ!」
、ってことで、即決まったシドメン行き。
さちこさんの親せきの人に案内をお願いして、山奥の村を訪ねました。
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避難勧告が出て以来、不思議と見えなくなっていたアグン山。
いつもは晴れていれば私たちの村からもくっきり見える霊峰です。
火山性微震の回数は減ってきたものの、山が見えない不透明さは
ひとつの心配の種でした。
避難の人たちが気になった事がきっかけになったけれど、
バリの織物のメッカ、シドメンにはかれこれ10年行っていなかったのです。
画家のウォルター・シュピースが暮らしていた地域。
今もバリの原風景が残る田園地帯。
下の写真は、その中の一軒のお宅です。
これ、何か分かりますか?
ヤシの樹液を採取して、おいしいものをつくっているところ。
この地域の名産でもあります。w
バリは今やすっかり都市化された思いきや、
昔から変わらない暮らしと時間を送っている地域がこうして。
貧しいのではないのです。
必要なものが少ない暮らしだから、自然の中に根ざした暮らしだから、不安がない。
きっと。そのようなシンプルライフなんじゃないかと思います。
家の一角には、機織り場。
これはソンケットの技法で、
儀式用のサロンの裾に縫い付ける織テープを織っているところ。
車でさらに30分ほどの山奥に。
食堂すら一軒もないような山間の集落で、この複雑な仕事をしていることには
こちらは、経糸をセットしているお宅です。
この人の頭の中には、
得意の音楽を奏でるように
柄が次にどう進むかが入り込んでいるかのよう。
一見簡単そうに見えますが、そうですね、
確かにガムラン音楽のような、複雑ながら、なめらかな一面を感じます。
山奥でこの技術。
聞いてみると、この地域は50年前のアグン山噴火の際には被害を受けず、
昔からソンケットを織っているのだそう。
インドなら貴族のお抱え職人のような立場でしょうけれど、
なんてのんびりとして見えるのでしょうか。
お訪ねすると、裸族のおばあちゃんが、今マンディ(川での洗濯)に行ってるから、
ちょっと呼んでくるね、って。
バリ人のすごいところのひとつは、これです。
高度な技術が、比較的ふつうに、もったいをつけずに存在している。
あぁ、これはもう10年くらい前によく作ったものだわ、とか、
これはこれでまた奥深い。
金沢ではその分一軒ごとに全部の工程をするのが伝統なので、
一軒がつぶれても他は残る、という。
シドメンの近くには昔栄えたクルンクンとゲルゲルの王家があり、
バリアガのダブルイカットを織る地域と近いにもかかわらず、
異国の影響、とくに華僑からの影響が感じられる城塞都市も残っているので
群島国家インドネシアの中であまり多くは見られないソンケットが
ここにあるのも、きっと歴史のなかにしっかり脈絡があるはずです。
金糸銀糸を多用するソンケット、今はカラフルな化学染めが主流のせいか、
こんなに派手なのです。(写真は生地の裏面ですが)
このような私たち好みの配色のものもあります。
飛行機に乗らず、両替もせず、
私たちのバリにある布の神秘にワクワクする今。
作品展で、ご覧ください!
さて、振り出しに戻りますが
火山活動による避難の方々は、シドメン地域からはいないようで、
逆にシドメンの集会所に避難している人々が大勢でした。
1日でも早くおうちへ帰りたい人々の願いとともに、
ここまで危機感を、持ちながら
本格的な噴火を免れている山の意思にまずは
深く感謝いたします。
山はたくさんの人々の祈りに応えて、
一生懸命に莫大なエネルギーをほかに分散しているかのようで。
ひと月以上続いた警戒レベル4、昨日避難区域が火口から7.5キロまで、
レベル3に引き下げられたそうです。
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