日本絹の里 1
携帯のインターネットを屈指して調べた
高崎市にある「日本絹の里」、
なんと2時間に1本しかバスがない!
でもそのバスに乗っていくしかないみたい。
朝からバス会社に電話して、絹の里にも電話して往路と復路をフィクスして
出かけました。
前橋駅から所要30分なので遠くはないのだけど、
とても遠くへ行った気分。
日本の絹産業についてこれまでの疑問点を、絹の里の学芸員さんに徹底的にインタビュー(笑)。
もちろんアポなしの突撃ですが、
学芸員さん、とても詳しく展示を見ながら解説してくれました。
(その方とサヨナラした後にも別の学芸員さんが出てきてくださり、最後は入場口の方がバス乗り場まで案内してくださり、すっかりお世話になってしまいました~。ははは。)
前回前橋に行ったとき、新幹線が県庁所在地の前橋ではなく高崎に留まるのが、何となく気になり群馬県の歴史をちょっと調べてみたことがきっかけです。
http://ateliermanis.air-nifty.com/blog/2015/05/post-48fb.html
絹産業ってすごく大きな産業だったんだな、と。
社会科でどう習ったかはすっかり忘れましたけれど
これまであまり知らなかった事が多い気がして、今回はじっくりお勉強です。
以下「」内は学芸員のFさん談。
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1
日本の養蚕と絹織物は明治の絹産業よりもはるかに前に始まっていたと聞いたことがあります。
絹は朝鮮半島、中国からの輸入だと思っていましたが、
どうやらとても古い時代から作り始められていたようです。
「正倉院に収められている御物の中に752年に収められた絹織物があります。日本ではもうその頃に養蚕は始まっていたと考えられています。中国では紀元前2000年前から始まっていたそうですよ」
「上州こと群馬県は、太田市などに前方後円墳が残っています。弥生系の渡来人のなかでかなり位の高い人たちが入り込んでいたと思われます」
「なぜかというと、この辺りは貝塚も出るようなところがたくさんある。利根川あたりまで当時は海だったんではないかと」
東京都、埼玉県はまだ海の底だったのかも、という説です。
「山に囲まれ平地が広がる上州は、縄文系の人たちがどんどん南下してくるのを防ぐための要所として使われた可能性があります」
このところ縄文系と弥生系の人相とかが少し比較され始められていますけれども、
教科書では縄文時代=石器時代で竪穴住居、弥生時代=埴輪文化で高床式住居、と、時代が変遷したように習ったので、二つが違う人種だということを私も大人になってからはじめて知りました。
そういうわけで、群馬県には古代からかなり高度な文化的なものが入り込み、養蚕も当然それとともに入ってきたのではないか、とのことなんです。
ふむふむ。
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以下は別の本からの抜粋です。
「絹をつくる技術は中国発祥で5000年位前からと見られています。
日本には3世紀末に書かれた魏志倭人伝に「蚕桑」という言葉が出てくるので、大体2000年位前からの歴史と見られているようです。
大化の改新後は税金の一部として絹織物が貢納され官人の給与の一部として支給されていました。絹が社会の重要産物であったことが分かります。
その後武士の世の中になると、質素を旨とすることになり絹は減少。
室町・安土桃山時代に茶の湯・能の隆盛で袱紗や衣装にふたたび絹の需要が増えました。
そして江戸時代になると、またも倹約思想となり減少。」
この浮き沈み、おもしろいです。
絹っていつの時代もほかの繊維と比べて特別視されていたんですね。
「江戸のころは参勤交代の請け負わせなどで諸藩は次第に窮乏していく。
財政立て直しのための産業復興の中で絹は各藩で積極的に生産され始めた。」
ちょうどその頃にペリー来訪、明治3年に創設の富岡製糸場、という流れなんですね。
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長くなるので、きょうはここまで。
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